ABOの「音楽・生聞(ナマギキ)通信」
【第2話】
『伝説のジャズピアニスト(後編)』
前回のコラムを読んで下さった方が、懐かしくなって当時のネイティヴサンのレコードを聞いたら、またハマってしまったと話していました。今聞いても、圧倒的な力強さ、完成度の高さには改めて驚かされます。このバンドのサックス・峰厚介(みね こうすけ)さんは、今も現役バリバリ、札幌でもよくライブをしています。歳を重ね、いぶし銀の魅力も加わった峰さんのライブ、是非足を運んでみて下さい。
さて、お待ちかねの後編です。
* * *
ネイティヴサン解散後、本田さんの演奏活動は、以前にも増してライブハウスが中心となった。名声を得たりヒット曲を書くより、仲間とお客に囲まれて、いい酒があって、自由にピアノを弾ければ、それで幸せだったのだろう。
ミュージシャンとライブハウスのオーナーという私達の関係に、ちょっとした変化があったのは、1994年、私がオーストラリアの民族楽器・ディジュリドウーを吹き始めた頃のことだ。
ある日、練習しようとジロキチに行くと、すでに本田さんがピアノを弾いていた(偉大なピアニストでありながら、自宅には生ピアノがなかったので)。私は早速、このディジュリドウーの音を聞いてもらうことにした。
「ブォ~~~~」
普通の人なら、この世にも珍しい重低音に驚いたり、不思議がったりするところだが、本田さんは違った。興味深げに聞いた後、すっとピアノに向かった。
すぐに即興でピアノの美しいメロディーがかぶさってきた。それは、今まで聞いたことのない、それでいて懐かしいような、何とも言えない旋律。
終わった後、本田さんは感心したように言った。
「すげェな、その楽器! お前にぴったりだな、力強くて、男らしくて」
信じられないことだが、その後何度も、ライブや野外イベントで、一緒に演奏する機会に恵まれた。まだ駆け出しで、音楽のことなど何もわかっていない私に、本田さんはいつもこう言ってくれた。
「お前の体の中にあるリズムでいいんだよ。フィーリングで相手と交わるスタイルを自然に持っているんだから」
その度、本田さんの優しさ、人間的なスケールの大きさをしみじみ感じたものだ。
* * *
本田さんが脳梗塞で倒れたという連絡が入った時は、「あの誰よりも元気な本田さんが」と耳を疑った。左半身のマヒが残り、ピアニストとしての復帰は絶望的と思われたが、彼には、ピアノしかないという強い執念があった。
病院のピアノでリハビリ、退院してからはジロキチのピアノで、こわばる指を痛めつけるような激しい練習を重ね、医者も驚く回復力で、ライブの現場に戻ってきた。
昔のようなスピード感や切れ味は若干失われたが、一音一音がより一層重みを増した。 その頃からだろうか、ピアノを弾く前に、天に手を合わせ、しばらく祈ってから静かに鍵盤に指を下ろすようになったのは。そこから生み出される音楽は、テクニックとかをもう、超越した、ドラマチックな、彼の生き方そのものだった。
人工透析が必要となった本田さんの腕には、いくつもの注射の痕と、浮き出た血管が痛々しかった。それでも、「透析すると体中の血液が入れ替わるから大丈夫だ」
と、カウンターでワインやビールを飲んで、周りを心配させた。さすがに量は減ったが・・・
* * *
2005年12月。その日は私のディジュリドウーのライブだった。準備のため早めにジロキチに到着。ドアを開けると、ピアノの音がした。本田さんだとすぐわかった。 夏のリサイタルの後、再び体調を崩して入院、つい最近退院したと聞いていた。本田さんがこちらを振り向き、昔に戻ったかのような、あのよく通るダミ声で言った。「おー!今日は一緒にやるからな!」
思ってもみなかった、飛び入り出演の申し出。久々に共演できる喜びで、胸が一杯になった。本当に素晴らしいライブだった。本田さんのピアノは、力強く、ダイナミックで、往年の勢いを取り戻していた。ネイティヴサン時代からの盟友、峰厚介さんのサックスとの絡みも最高だった。
アンコールの曲は美しく、本田さんの魂が溢れているようだった。一緒に演奏しながら、ふと頭に、「浄土」という言葉が浮かんだ。
ライブ後、来年に向けての計画をあれこれ話し合った。入退院を繰り返し、一時は話すのも辛そうだったのに、この日の本田さんはハリのある声で、楽しそうによくしゃべった。
「もう、元気バリバリだよ!来年はやるから!」
そして、それが本田さんと会った最後になった。
* * *
葬儀には日本中から大勢のファンが押し寄せ、式場が騒然となる程だった。
ジャズピアニスト、本田竹広さん。豪快で、純粋で、優しくて・・・伝説になるにはまだ早すぎた。