ABOの「音楽・生聞(ナマギキ)通信」
【第2話】
伝説のジャズピアニスト(前編)
1970年代半ば、すでに日本ジャズ界の第一人者として活躍していたサックスプレイヤーのナベサダこと、渡辺貞夫さん。彼が連れてきたピアニストが、今回の主人公、本田竹広さんだ。後に化粧品会社のCMにも出演した貞夫さんは、本当にお洒落で格好良かった。一方の本田さんはと言うと、いきなり、アフリカの原住民のようで、私は一目で惚れ込んでしまった。がっしりとした体格はむしろ体育会系、色が黒く、指は一本一本がハンマーの様に太くて、ピアニストという繊細なイメージからは程遠い。
本田さんは、少ししゃがれた、けれど、よく通る声でこう言った。
「オレ、裸足で地を這うようなリズムが好きなんだ。黒人がズッズッて、歩くような」
同年代ということもあり、私達はすっかり意気投合。
以来四半世紀以上、本田さんはジロキチを根城に活動することになる。ライブや練習の時はもちろん、アパート代わりに住んでいたことも。
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岩手県出身の本田さんは、両親ともピアノ教師。幼い頃から神童と言われ、クラシックのピアニストを志し、12歳で上京する。ところが、学生時代に出会ったジャズに衝撃を受け転向。両親や大学の先生は、なんともったいないことを、と嘆いたというが、自由で野性味溢れる本田さんにとって、ジャズとの出会いはやはり運命だったのだろう。FMラジオがジロキチで、ナベサダの公開ライブをしたことがあった。この時の本田さんの姿を今でもはっきり覚えている。前半はスタンダードなジャズで、お客さんも静かに聞き入っていたが、中盤からのサンバメドレーで、本田さんは本領発揮。ピアノを打楽器のように打ち鳴らし、途中、メンバー全員がパーカッションに持ち替える場面では、立ち上がり、大きなシェイカー(注)を両手で抱え、ジャカジャカ振りながら、もうノリノリで踊っている。本当に、こんなピアニストは見たことがなかった。ピアニストで、原始人。額から玉の汗が飛び散る。地鳴りのするような本田さんのリズムにお客さんも総立ちで踊りだす。スタッフが慌てて椅子を隅に寄せる。リオのカーニバルのような光景、拍手と歓声は鳴り止まない。この時、私の本田さんに対する一目惚れは、確信に変わった。彼こそ、新しい時代を創る男だと。その後、貞夫さんは、芸術大賞を受賞したりして、ご存じの通り世界的ビッグネームとなった。本田さんは、貞夫さんから離れ、自らがリーダーのネイティヴサンというバンドを作る。サンバやラテン、アフリカンを取り入れた新鮮なリズム、おしゃれで明るい南国風のサウンドはたちまち若者の心を捉え、ネイティヴサンは、一躍スターダムへとのし上がった。日本のフュージョンの幕開けだ。ライブはいつも若者で満杯。代表曲「スーパーサファリ」は、疾走感溢れるゴキゲンなナンバーで、マクセルのカセットテープのCMにも使われ大ヒット、アルバムはジャズ系としては異例の30万枚を売ったという。一時はパチンコ屋さんでもかかっていた程なので、記憶にある方もいるかもしれない。
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この頃の本田さんには、豪傑という言葉がぴったりだった。
ライブ後の打ち上げやパーティーでは、本田さんが中心となって、必ず水掛け合戦やケーキ投げ、果ては泡盛の一気飲みまで始まる。それも、大きな“ほら貝”を器にした一気飲みだ(決してマネしないで下さい)。散々飲んだ挙句、またピアノを弾いたり、たまにミュージシャン仲間とケンカしたり、静かになったと思うと、ピアノの下で寝ていたり。誰かが誕生日と聞けば、「ハッピーバースディ」を弾いて盛り上げるなんてこともしょっちゅうだった。辛い物も大好きで、ラーメンでもモツなべでも、入れる唐辛子の量は半端じゃなく、具が見えなくなる程だ。本田さん自ら調理したモツなべが振舞われる時など、あたかも我慢大会の様相で、あまりの辛さに目を白黒させる者、全身汗ダクで食べる者、絶叫しながら食べる者、スキンヘッドの頭皮から血が出てきた人までいる(本当の話です)。まるで盆と正月が一緒に来たような大騒ぎが毎晩続くのだから、店側はたまらない。ライブ後のバータイムがそろそろ終わる午前1時過ぎになると、スタッフ全員、「今日は、来ませんように・・・」と祈ったものだ。が、ラストオーダーを取り始めた、その時、バンッ、とドアを開ける音がして、やっぱり、本田さん参上。ああ、また朝まで帰れない。ハチャメチャで、わがままで、エネルギッシュで、ピアノを心底愛していて、そんな本田さんの魅力に巻き込まれながら、ライブハウスの夜は更けていくのだった。
(注)シェイカー マラカスの様に振って音を出す楽器で、中にビーズが入っている